ドリブルでのステップを刻むリズムにおいて、観客や敵・味方の選手を問わずに楽しませる希有な選手。他の一流選手と比較しても、ボールタッチが異常なまでに多い。このことが相手選手がボールを取りに来たのを見てからかわせる秘訣と思われる。
一番輝きを放った所属クラブはFCバルセロナ。バルセロナでのプレイエリアは主に攻撃的なポジションの中央や左サイドでプレイしていた。左サイドが多く、いわゆるウイングのポジションではあるがサイドを駆け上がるのではなく外から中のゴールに向かってプレイをすることが多い。そこからドリブル、シュート、そして空いたスペースへ味方に絶妙なパスを送る。
ブラジルA代表デビューは1999年6月26日のラトビア戦。その直後に開催されたコパ・アメリカのメンバーにも選ばれ、対ベネズエラ戦の技巧的なゴールを決めた。
1999年のFIFAコンフェデレーションズカップと2000年シドニーオリンピック予選では得点王を獲得。2002年の日韓W杯では、ロナウド、リバウドと共に強力な攻撃ユニットを組み(3人のイニシャルから「3R」と呼ばれた)、優勝に貢献。2006年のドイツW杯ではクラブでの活躍やバロンドールを獲得していることなどから「ロナウジーニョのための大会」とまで言われ注目を集めたが、結局1ゴールも挙げられないまま準々決勝で敗退した。
クラブでは、2003年にフランスのパリ・サンジェルマンからリバウドの後釜を探していたFCバルセロナへ移籍(レアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッドとも交渉を行っていた)。リバウドも背負った10番を身にまとい、ローテーションを取り入れたクラブの中心選手となった。
2004年、2005年と2年連続でFIFA選出の世界最優秀選手に選ばれた。また2005年には欧州最優秀選手(バロンドール)にも選ばれ、ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人『FIFA 100』、2006年にUEFA年間最優秀選手にも選出される。
2007年、スペイン国籍を取得。
2008年4月にフランス・フットボール誌が発表した世界のサッカー選手の年収ランキングで第2位(2410万ユーロ)に選ばれた(1位はデビッド・ベッカム)。2007-2008年シーズンは不調に陥り、出場機会も減った。
2008年7月15日、イタリア・セリエAのACミランへ3年契約での完全移籍が発表された。マンチェスター・シティからより高いオファーを受けていたが、それを断っての契約だった。背番号をめぐっては現在10番を着けているセードルフとの駆け引きに注目が集まったが、自らの生まれた年にちなんで80番を背負った。
ミランサポーターの期待を背負い、自らの復活をかけて臨んだ2008-09シーズンは、序盤こそ2008年9月28日のセリエA第5節で、インテル・ミラノとのミラノダービーで決勝点となる初得点を記録するなどまずまずの活躍をみせていたが、レギュラーを奪取するだけの活躍は見せられず、徐々にベンチを暖める機会が増えていき、シーズン終盤には控えとなった。2009年夏にカカがレアル・マドリードに移籍し、2009-10シーズンは新監督のレオナルドの信頼を得て、徐々に調子を取り戻した。そのため南アフリカW杯での代表メンバー入りも期待されたが、結局23人の最終メンバーに選ばれることはなかった。2010-11シーズンは、序盤こそスタメンで出場していたが、1点も決められず、イブラヒモビッチ,ロビーニョなどの加入で、徐々に出場機会を失っていき、最終的には、ベンチスタートが多くなり、リーグ戦ではノーゴール、結局、UEFAチャンピオンズリーグのオセール戦での1ゴールのみに終わった。
2011年1月10日、ブラジルのフラメンゴに契約期間3年半、移籍金300万ユーロで完全移籍した。ロナウジーニョのサラリーは、週給13万ユーロのようだ。ミランで出場機会を失ったことを受け、ブラジルへの帰国を望んでいたロナウジーニョは、当初古巣グレミオへの移籍が有力視されていた。グレミオのファンはロナウジーニョがフラメンゴを選んだとして、「裏切り者」などと罵倒していた。
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