並外れた身体能力を持ち、パワーとスピードを生かした迫力のあるプレーでゴールを陥れるストライカー。2度のアフリカ年間最優秀選手、2度のプレミアリーグ得点王など数々の栄誉を手にしたストライカー。コートジボワール代表の現主将であり、最多得点記録の保持者でもある。
歳の頃、生まれ故郷のコートジボワールを離れフランスに移り、サッカー選手であった叔父の元で育てられる。18歳までパリ郊外の地元チームに所属、19歳でル・マンUCとプロ契約しキャリアをスタートさせる。
ル・マンでは怪我もあり満足な活躍ができず、2001-2002シーズン途中からギャンガンに移籍、2002-2003シーズンには17得点を挙げると注目され、マルセイユに5年契約で移籍。素早い順応を見せた彼は、リーグでは18得点を挙げ、2003/04シーズンのリーグ・アン最優秀選手に選出された。UEFAカップでも獅子奮迅の活躍、準優勝の原動力になり得点王も獲得した。チャンピオンズリーグで対戦した当時ポルトのモウリーニョ監督の目に留まり同監督とともにチェルシーへ、同クラブ史上最高額の移籍金47億円で移籍した。
幼いころフランスへ移住していたため、代表ではフランス人として、フランス代表でプレーすることも可能であったが、母国であるコートジボワール代表を選択。アーセナル所属のDFコロ・トゥーレと共に母国をドイツW杯初出場に導く原動力となった。
2006-2007シーズン、アンドリー・シェフチェンコの加入により出番が少なくなると思われていたが、ツートップで使われる形が多くなることもありチェルシー加入3シーズン目で本領発揮、開幕から素晴らしい活躍を見せアフリカ年間最優秀選手に選ばれる。最終的に公式戦59試合出場33得点を挙げる。リーグでは20得点を挙げてFAプレミアリーグ得点王に輝いた。
2008-2009シーズンに就任したルイス・フェリペ・スコラーリ監督のもとでは、怪我などによりベンチに回る事が多く不発に終わったが、2009年2月から就任したフース・ヒディンク監督のもとでは、これまでにはなかったニコラ・アネルカとの2トップを組み、08/09UEFAチャンピオンズリーグのユヴェントス戦では第1戦、第2戦ともにゴールを決めるなど、怪我からの復調を印象付ける活躍を披露し、改めてエースとしての存在感を見せつけた。2009年5月6日にスタンフォード・ブリッジにおいて開催されたUEFAチャンピオンズリーグの準決勝セカンド・レグ、vsバルセロナ戦において主審を務めたトム・ヘニンク・エブレベのレフェリングに対して試合後に激しい批判を行い、後に行動が不適切であったとして謝罪した。また、以前から慕っていた元チェルシー監督のジョゼ・モウリーニョを追ってインテルに移籍するという噂がメディアの間で度々出ていたが本人がこれを否定、更にはチェルシーでの契約延長が決まった。
2009-2010シーズンのアンチェロッティ監督のもとでは前シーズン得点王のニコラ・アネルカと2トップを組み、ゴールを量産。自身は「相手にとって最も怖いFWコンビになる」とコメントしている。2009年10月10日のマラウイ戦ではコートジボワールの2大会連続W杯出場を決める同点ゴールを挙げた。そして2010年5月9日、勝てば自力でのチェルシーの優勝が決まる最終節のウィガン戦にてハットトリックを達成するなどチームを勝利に導き、リーグ通算29点を挙げ得点王も獲得した。さらにチームは総得点103点という記録を叩き出し、プレミアリーグのシーズン最多ゴール記録を大幅に更新している。
2010-2011シーズンは6月の代表戦における骨折や、秋のマラリア感染の影響からコンディションを落とした。
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