代表、クラブの活躍から右サイドバックのイメージが強かったが、本人は「センターバックが一番力を発揮できる」と公言し続けており、センターバックで出場した2006年W杯では、開催前の低い評価に反し、ウィリアム・ギャラスとのコンビで鉄壁の守備を誇った。晩年はクラブ、代表とも念願のセンターバックでプレーしていた。
ピッチ外でも、同化推進委員会に属するなど、頭脳明晰な面も持ち合わせる。
2005年、パリ郊外を中心として発生した暴動に対し一定の理解を示す発言をするなど、フランス国内において一定の影響力を有している。
1988年、フランスの名門サッカークラブ、ASモナコによりスカウト。 1990年に同クラブでプロデビュー。当時の監督アーセン・ベンゲルの指導の下、次第に身体能力の高さとマンツーマンの場面での勝負強さが注目され始める。
1996年にセリエA・パルマACへ移籍し活躍。
2001年、ユヴェントスへ移籍し、同年優勝を果たす。2006年、所属したユヴェントスの降格問題などから現役引退も視野に入れていたようだが、最終的にバルセロナへと移籍した。
EURO2008後、パリ・サンジェルマン移籍が確実視されていたが、メディカルチェックにて心臓の奇形が発覚した。再検査を行った結果、最初の診断は誤りで、彼の心臓は正常であったことがわかったのだが、彼の実兄はかつてバスケットボールの試合中に心臓発作で亡くなっており、リリアン自身にも同じことが起こるのではと常日頃から心配していた母親を安心させるために、現役引退を2008年8月1日に正式に表明した。
1994年8月17日のチェコ戦でフランス代表の招集を受け、初出場を果たす。
1998年のフランスW杯では、グループリーグを通じて7試合2失点(グループリーグ最終戦前に決勝トーナメント進出が決まっていたフランス代表は、グループリーグ最終のデンマーク戦はサブ中心で、自身も出場せず、実質6試合1失点)という強固な守備陣の一翼を担い、W杯初優勝を果たした。特に、準決勝のクロアチア戦において自らのミスにより先制された後、オーバーラップにより挙げた貴重な2ゴール(2-1で勝利)は後の語り草となっている。また、この2得点が自身の代表での唯一の得点となった。2000年にオランダ・ベルギーで開催されたEURO2000でも守備の要として貢献し、優勝。
2002年、日韓W杯にフル出場するも、グループステージ敗退。
2004年、EURO2004終了後、代表引退を表明。
2005年、ドイツW杯欧州予選に苦しむフランス代表の救世主として、モンペリエで行われた国際親善試合コートジボワール戦にてジネディーヌ・ジダン、クロード・マケレレと共に代表復帰した。自身は負傷交代したものの、チームは3-0で勝利。その後、苦しんでいたフランス代表は息を吹き返し、予選を1位で通過した。2006年、ドイツW杯グループリーグ・トーゴ戦において、かつての盟友マルセル・デサイーの持つ代表出場記録を塗り替え、歴代1位となった。チームは決勝で敗れたものの、ディフェンスの要として全試合に出場した。
スイス・オーストリア共催で開かれたEURO2008の初戦、ルーマニア戦に出場した事によりEURO出場試合数を15とし、歴代1位となった。今大会を最後にフランス代表からの引退を発表。代表出場142試合はフランスの歴代最多である。
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