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国籍 |
ポルトガル |
生年月日 |
1977/08/27 |
ポジション |
MF |
身長・体重 |
174cm73kg |
特徴 |
テクニック |
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▼選手紹介▼プレースタイル
圧倒的なテクニックと、創造力豊かなプレーを披露する。
ブラジルでは目立った存在ではなく、19歳の時にポルトガルへ渡ってから才能が開花した。
1997年、ポルトガルの強豪、ベンフィカに入団するが即座に2部リーグのアルベルカにレンタルされる。この時デコは、「ベンフィカに裏切られた」と泣いたという。ここで32試合に出場し13得点をあげる活躍をみせ、このままベンフィカに復帰するのではと思われたが、翌1998年は1部のサルゲイロスへ移籍。ここでも活躍をみせるとこのシーズン途中にFCポルトに引き抜かれ、完全移籍する。
ポルトでも質の高いプレーを見せていたが、移籍初年度の1998-1999シーズンを最後にリーグ優勝を果たせずにいた。しかし迎えた2002-2003シーズン、監督にジョゼ・モウリーニョが就任すると、リカルド・カルヴァーリョ、パウロ・フェレイラ、マニシェらのポルトガル代表選手と共にデコは以前にも増してその本領を発揮、見事にリーグ優勝を決める。その勢いで2003-2004シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ優勝も達成。さらに、UEFAチャンピオンズリーグのMVPも受賞。
2004年夏の移籍市場では、リカルド・クアレスマとのトレードでFCバルセロナに移籍。ロナウジーニョらスター選手に囲まれながらも、デコはバルセロナの"心臓"と呼ばれ縦横無尽の活躍を果たし、2004-2005シーズンは38試合中35試合に出場し、リーグ優勝に貢献した。2005-2006シーズンはリーグ連覇に加え、自身2度目となるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成。FIFAクラブワールドカップ2006では、決勝でSCインテルナシオナルに敗れるも同大会のMVPに選ばれる活躍を果たした。しかし、その後は自身の負傷やアンドレス・イニエスタの台頭もあって出場機会が減少していった。
2007-2008シーズン終了後、FCバルセロナの新監督に就任したジョゼップ・グアルディオラから構想外を宣言され、ポルトガル代表での恩師であるルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任したチェルシーFCへ移籍金800万ポンドで移籍。2008-2009シーズンのリーグ開幕戦であるポーツマスFC戦でデビューし、その試合でミドルシュートを決めてプレミアリーグ初ゴールも挙げた。しかしその後、スコラーリが解任されてフース・ヒディンクが監督に就任すると出場機会を失っていき、2009年夏の移籍市場ではインテルなどへの移籍が注目されるも残留。しかし2009-2010シーズンは新監督に就任したカルロ・アンチェロッティにより、トップ下のポジションを得て輝きを取り戻した。
デコに目をつけていたルイス・フェリペ・スコラーリは、ポルトガル代表監督になると同時に、デコにポルトガル国籍取得を要請し、デコはポルトガルに帰化する。そしてポルトガル代表に選出されたが、当初は中心プレーヤーのルイス・フィーゴやマニュエル・ルイ・コスタから猛反発を受けてしまう。そのような状況下で2003年3月29日、ついに代表デビュー。相手は奇しくも生まれ故郷のブラジル。この試合はポルトのエスタジオ・ダス・アンタスで行われ、デコは後半15分に途中出場して決勝点を挙げ、ポルトガルが2-1で勝利を収めた。彼の活躍が対ブラジル戦37年振りの勝利につながり、一日でチームメイトや国民の信頼を確立した。
その後はEURO2004にも出場。開幕戦のギリシャ戦で後半から出場した後は全試合に先発出場し、ポルトガル準優勝に貢献した。
2006 FIFAワールドカップでは、怪我のため初戦のアンゴラ戦を欠場したものの、2戦目のイラン戦で先発出場すると決勝点となるミドルシュートを豪快に決め、ポルトガルの40年ぶりの決勝トーナメント進出に貢献したが、次ぐオランダ戦では退場処分を受けている。大会を通じて「らしさ」は魅せたものの、やや精彩を欠いた。
2010 FIFAワールドカップ限りで代表引退を発表した。
かつて在籍したFCバルセロナでは「11人のデコは11人のロナウジーニョに勝る」とまで謳われた。攻撃のみならず守備での強さも合わせての評価。
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