後列から前線への飛び出しを得意とし、強烈なミドルシュートを持つ攻撃的なミッドフィルダーである。正確な長短のパスを駆使し中盤の底からのゲームメイクも得意とする。熱くなりやすい性格で、不要な警告を受けることが少なくない[要検証]ほか、相手選手の足をわざと狙うようなプレーが見られる事もある。
1992年、後の義父となるベルト・ファン・マルワイクが監督を務めるフォルトゥナ・シッタートへ入団。翌シーズンにはデビューを果たして頭角を表すと、中盤の中心選手として出場機会を増やし、当時2部だったチームの1部昇格へ貢献。1999-2000シーズンにはPSVアイントホーフェンへ移籍。リーグ優勝に貢献する活躍を見せるとともに、2000年10月7日のキプロス戦でオランダ代表デビューを果たした。
翌2000-2001シーズンにはPSVのキャプテンとして攻守にわたって活躍し、リーグ連覇に貢献。一方で2002年の日韓W杯はオランダ代表が出場権を逃がし、EURO2004では自身の故障で出場を辞退するなど不運に見舞われている。2004-2005シーズンには自身最多となる14得点を挙げてリーグ優勝を果たすとともにUEFAチャンピオンズリーグではベスト4入りを果たした。
2005-2006シーズンからはその活躍が認められてFCバルセロナへ移籍。サミュエル・エトオやロナウジーニョなど攻撃陣が揃う中での活躍が期待されていたが、レギュラーに定着することができなかった。
2006-2007シーズンはシーズン前のチームのアメリカ遠征にも参加したが、監督であるライカールトに起用法を聞いたところ、「昨シーズンと同じくらいの出場時間かもしれないし、減るかもしれない」と言われた為か出場機会を求めてドイツのバイエルン・ミュンヘンに移籍。移籍金は770万ユーロ。同年チェルシーに移籍したミヒャエル・バラックの後釜としてチームの中核を担う活躍が期待された。9月23日の対アーヘン戦でブンデスリーガ初ゴールを決めると、30試合に出場し6ゴールを記録するなど期待に応える活躍を見せる。2008-09シーズンより、オリバー・カーンの引退により、ドイツ人以外ではチーム初となるキャプテンに就任した。
ドイツW杯以降は「今のスタッフが総退陣しない限り代表ではプレーしない」(主な理由は監督のマルコ・ファン・バステンとの確執だったと言う、アヤックス・アムステルダムの選手ばかりを重用していると言う不満からだそうである)という理由でオランダ代表からの招集を拒否していたが、EURO2008後初の親善試合で代表に復帰した。
2009年5月、資金難でリーグライセンス発行に苦心している古巣フォルトゥナ・シッタートのためにバイエルン・ミュンヘンとのチャリティーマッチを企画した。7500人の観客が来場し、売り上げが20万ユーロに達するなどイベントとしては成功したが、とうのファン・ボメルは左太腿を負傷していたために出場できなかった。
2011年1月、バイエルン・ミュンヘンからACミランへ移籍した。契約期間は5か月、また契約解除のために移籍金は発生していない。
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