イングランド・ロンドン出身の同国代表サッカー選手。母はイングランドとアイルランドの血を引く白人で、父方からセントルシアの血を引く。
現在世界最高クラスのCB。1対1,空中戦、カバーリングなどディフェンス時のあらゆる状況で圧倒的な強さを見せ,驚異的な状況判断能力で常に最善のディフェンスを選択し相手チームの攻撃を凌ぎきる。
抜群のキャプテンシーでDFラインを完全に統率し,GKやCBのペアとの連携を密にする事でチームのディフェンスの質を格段に引き上げている。 屈強な体格ながらスピードが速く、ポジショニングの良さもあいまって守備範囲が非常に広い。
元々FWの選手だったため足元の技術が高く、ボールを奪いにきた相手を巧みにかわし、高精度なフィードで攻撃を組み立てる事もできる。ヘディングの技術も高いためセットプレーでは相手チームにとって大きな脅威となる。
現在サンダーランドAFCに所属しているDFアントン・ファーディナンドはリオの弟、元イングランド代表FWレス・ファーディナンドは従兄弟である。
マンチェスター・ユナイテッドではムードメーカーであるとされる。
ウエストハム・ユナイテッド時代のチームメイトであるフランク・ランパードは親友。
2001年に来日した際、直前に起きた大阪教育大学附属池田小学校での児童殺傷事件の事を耳にし、京都観光の予定を変更して一緒に来日したアラン・スミス、自身の母と共に現場である同校を訪れ、校門前に献花をした。この話は、Numberに掲載され多くの人の知るところとなった。2002年W杯で来日した際と2008年12月にFIFAクラブワールドカップ出場のために来日した際にも同校に哀悼の意をささげ花束を贈っている。花束には「悲しく痛ましい事件を思い起こし、哀悼の意をささげ、献花したい。この花を飾ってください」という本人のメッセージが添えられていた。
17歳となる1995年にウェストハム・ユナイテッド とプロ契約を結び、この時U-17イングランド代表にも選出される。プレミアリーグ95-96シーズン、5月5日のシェフィールド・ウェンズデイ戦で控えとして試合に初登録を果たし、96-97シーズンの1月に初先発で出場すると以後レギュラーを獲得。期待の新鋭として注目を集め、1997年11月15日にはA代表デビューも果たす。
2 000年11月25日にリーズ・ユナイテッドに移籍金1,800万ポンド、当時の日本円にして約28億4,400万円で移籍。
2002年、02日韓W杯に出場。大会期間中の7月22日に以前から取り沙汰されていたマンチェスターUへの移籍が決まる。同年の5月頃に移籍金は2,910万ポンド、当時の日本円にして約55億円と報道されたが、最終的には7月12日に3,000万ポンド、64億2,500万円と積み上がり合意に至った。
2004年、ドーピング検査に出頭しなかった件で8ヶ月の重い出場停止処分を受ける。出場停止期間が明けてチームに復帰すると、再び不動のディフェンスリーダーとして活躍。2007−2008シーズンの二冠を含む数々のタイトル制覇に大きく貢献している。
2010年2月、代表主将ジョン・テリーの不祥事が発覚したため、テリーに代わって副将から主将に昇格。同年5月には2010 FIFAワールドカップイングランド代表に選出され主将に任命されたものの、大会直前の6月4日の練習で左膝の靭帯を損傷し離脱した。
最近では、背中、腰、ふぐらはぎと相次ぐ怪我に悩まされている。実際に2009-2010シーズンの前半戦は公式戦6試合の出場に留まり、本来のパフォーマンスが取り戻せずにいる。
マンチェスター・ユナイテッドの試合でそのため、タブロイド紙等を中心に「クラブ側は放出要員として考えており、本人も移籍を検討。獲得を目指しているのはレアル・マドリードらしい」等の根拠のない報道や噂がたびたび流された。しかし本人は、ユナイテッドのオフィシャルマガジン『インサイド・ユナイテッド』の独占インタビューで、「このチームで現役を終えたい。ユナイテッドでキャリアを終えることはオレの夢だ。クラブの黄金期を築いた選手として、ファンの記憶に残りたい」と断言している。
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