同名の父、ボヤン・クルキッチは1980年代にレッドスター・ベオグラードでプレーしたセルビア人の元サッカー選手で、現在はFCバルセロナのスカウトを務める。母はスペイン人(カタルーニャ人)の看護師。そのためカタルーニャ選抜としてもプレーする。
幼少のころに名門バルセロナに入団し、カンテラの各カテゴリの得点記録を軒並み塗り替え、バルセロナの若手有望株と期待された。特に2006年に昇格したセカンドチームであるバルセロナBではセンターフォワードのレギュラーポジションに定着し、22試合で10ゴールとジョバニ・ドス・サントスらとともにオフェンスの中心を担う活躍をみせるなど、カンテラ通算7年間(1999年〜2006年)で900点以上をあげた。
この活躍が評価され、2007-08シーズンからはわずか16歳にしてドス・サントスと共にトップチームへの昇格し、直後のプレシーズンマッチ第2戦のハーツ戦にて得点に絡む活躍を見せている。
リーガ・エスパニョーラにデビューしたのは2007年9月16日のリーガ第3節CAオサスナ戦であり、17歳と18日という若さでのデビューとなった。また、その3日後の9月19日に行われたオリンピック・リヨン戦でUEFAチャンピオンズリーグのデビューを果たした。
そして、それから1ヵ月後の10月20日、リーガ第8節ビジャレアルCF戦で得点を挙げてクラブ最年少得点記録を更新した。この初ゴールのアシストは、それまでの記録保持者であるメッシであった。この2007-08シーズンではリーガデビューからコンスタントに試合に出場し、リーガ10ゴールを挙げるなどトップチームに定着するに至った。これは同じく17歳でデビューしたラウル・ゴンサレスの9ゴールを抜きリーガ・エスパニョーラの新人記録となった。
なお、デビュー時点では、スペインの労働法により18歳未満とはプロ契約を結べなかった為、バルセロナとプロ契約をしていなかった。このため、マンチェスター・ユナイテッドやアーセナル、チェルシーといったイングランドのクラブがボージャンを獲得しようとしたが、本人はバルセロナを離れるつもりはないと明言し最終的には18歳になった直後にバルセロナとプロ契約を結んだ。
2008-09シーズンから背番号を11に変更した。
スペイン代表としては2008年2月のフランスの親善試合で初めて招集され、代表の最年少出場記録を塗り替えることが期待されたものの、体調を崩したため出場することはなかった。その後、2008年9月10日のワールドカップ2010予選のアルメニア戦で代表デビューを果たした。
カタルーニャの親善大使である。
2010-11シーズンから背番号を9に変更した。リーガエスパニョーラ第29節ヘタフェ戦で、クラブ史上最年少でリーガ100試合出場を遂げ、「本当に素晴らしい夜だった。僕にとっても、チームにとってもこのような試合は必要だったんだ。ピッチに立てて、それもゴールを決められてうれしいよ。100試合出場だって気付いたときは、鳥肌が立ったんだ。それもバルサでの100試合出場。これまでやってきた自分の仕事を、とても誇らしく思っている。これだけ早く100試合出場を達成できたのは、サポーターのおかげだ。いつもファンから愛されていると感じてきたし、そのことが僕に戦い続ける力を与えてくれているんだ」とコメントした。
出場機会を求めて、2011年7月にルイス・エンリケ率いるASローマに1200万ユーロで移籍。
|