中盤の底から正確無比なパスワークで試合を組み立てるイタリア代表のMF。的確な状況判断を可能とする高度な戦術眼と、広い視野から繰り出される長短正確なパス能力を有し、攻撃を演出する能力に優れた世界最高峰のレジスタである。前線に上がる、あるいはサイドに張り出すことはほとんどなく、中盤中央でプレーする。
鋭く曲がるカーブボールや、GKの手前で微妙に変化する無回転のナックルボールなど、球種の多いプレスキックも大きな武器の一つ。
かつてはロベルト・バッジョの後継者と謳われた攻撃的MF・セカンドトップであり、ユースレベルでは得点王も獲得していた。2000年UEFA U-21欧州選手権の決勝では2ゴールを挙げ、イタリアを優勝に大貢献。期待の若手ファンタジスタとしてビッグクラブに引き抜かれ、サッカー界での明るい未来は約束されたかのように思われた。
1995年に地元のブレシアでセリエAデビュー。翌年、クラブはセリエBに降格してしまうが、1年で昇格。この時にイタリアの至宝ロベルト・バッジョと出会い、バッジョ自らが、自分の後継者と指名する。昇格に貢献したことが目に留まり、1998年に、自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。
しかしトップ下と言うマークの集中するポジションを担うプレーヤーとしては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。ピルロは、選手層の厚いインテルでまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。ここでカルロ・マッツォーネの下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験する。2001年、ブレシアでシーズンを終えた後、ACミランに完全移籍する。ミラン移籍1年目も、トップ下のポジションにはマヌエル・ルイ・コスタがいたため、監督のファティフ・テリムの構想外であり、試合出場もほとんどなかった。
2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティがミランの監督に就任。アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、試合出場を願うピルロは通常のトップ下のポジションではなくディフェンシブミッドフィルダーとしての起用を直訴する。ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾。守備主体のポジションに攻撃の要の選手を起用することは当時まだ珍しかったが、奇しくもその後のサッカー戦術を先取りする形となった。トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、クラレンス・セードルフ、ジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーやマッシモ・アンブロジーニのようなディフェンス能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーのチームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮をつかさどる存在として、長短織り交ぜた正確無比なパスを供給し続け、レジスタとしてのポジションを確立。今までの不振が嘘のようなパフォーマンスを披露するようになる。UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。そして2007年のバロンドール投票でカカ、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ4位の票数を獲得した。
2009年夏、恩師であるカルロ・アンチェロッティがチェルシーFCの監督に就任したことにより、チェルシーFCへの移籍が噂されていたが、残留した。
2011年5月、契約満了となる6月までの契約を延長せず、10年間在籍したACミランを退団する事を発表。5月24日、移籍金なしの3年契約でユヴェントスFCへ移籍した。
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