攻撃的なポジションなら大抵こなすことができる。世界最高クラスのドリブルの名手。高い得点力とともに、シザースなど変幻自在のプレーで見る者を魅了する。「ドリブル・キング」や「フェイント百科事典」等の異名を持つ。
2002年、サントスFCに入団。若手のサッカー選手の宝庫と呼ばれるブラジル国内で実力を発揮し、数々のユース世代の世界大会で注目を集めるようになる。
2004年にはブラジル代表に招集され、ロナウドやロナウジーニョらとともにサッカー王国を担う選手として期待を集める。同年、FIFAコンフェデレーションズカップではチームの優勝に一役買う。
大会終了後、レアル・マドリードが本格的に獲得に動くが、クラブ間の交渉や移籍金を目当てとした実母の誘拐などで頓挫。2005-2006シーズンから移籍金2400万ユーロで移籍し、正式に加入する。背番号はフィーゴが着けていた10番ということもあり、期待が窺われた。クラブでは、フォワードよりもサイドハーフの位置で起用された。
2006年のW杯の代表にも選出され、4試合に出場。準々決勝の対フランス戦では、ブラジルが負けたにもかかわらず試合終了後にユニフォーム欲しさにジダンに駆け寄った。
2007-08シーズンはラウル、ファン・ニステルローイとともに3トップを形成しチームのリーガ2連覇に貢献。しかし、シーズンオフにはクラブが自身をクリスティアーノ・ロナウド獲得のための代替要員として扱ったことに激怒。結局、ロナウドの獲得は叶わなかったためクラブは彼を慰留するも、チェルシーが獲得に名乗りを挙げ、2008-09シーズンのリーグ開幕戦当日にチェルシーへの移籍願望を表明する記者会見を開くなど大きな問題となった。その後もシュスター監督をはじめチームは彼を説得するも、本人の意思は強く、最終的にマーケット締め切り日の9月1日に移籍金4200万ユーロでマンチェスター・シティに移籍することが発表された。
マンチェスター・シティでは攻撃の中心として活躍し、プレミアリーグ4位タイの14ゴールを挙げたが、2009年1月19日にスペイン・テネリフェで行われたクラブの合宿を無断離脱し、ブラジルへ一時帰国 。 同年1月27日、14日のリーズのナイトクラブでの強姦の容疑で一時拘束されるなど素行に問題があり、マーク・ヒューズ監督とは衝突していた。また、チーム自体もプレミアリーグ10位に終わった。2009-10シーズンは本調子からは遠く、出場機会が減少。1月には古巣・サントスFCへレンタル移籍した。
2010 FIFAワールドカップでは決勝トーナメント1回戦のチリ戦で自身W杯初得点を挙げ、勝利に貢献。この試合のマンオブザマッチに選出された。続く準々決勝のオランダ戦でも先制点を挙げたが、チームは逆転負けし敗退した。
2010-11シーズンからセリエA・ACミランに移籍金1800万ユーロ、4年契約で移籍。9月11日のACチェゼーナ戦でミランでのデビューを飾り、10月6日のACキエーヴォ・ヴェローナ戦で移籍後初ゴールを挙げた。
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