シュートテクニックの非常に高い選手で、難易度の高いシュートも難なく決める。2006年トヨタカップの準決勝、クラブ・アメリカ戦ではアクロバティックなシュートで先制ゴールを決めている。それに代表されるように、FCバルセロナでもスーパーサブ的存在でゴールを量産した。ボールタッチも優しく、パスは一級品とされる。 また献身的なポストプレーやオフ・ザ・ボールの動きでチームへの貢献度も抜群である。持ち前の背の高さでヘディングも得意。スピードにも優れ、センターフォワード、セカンドトップのどちらとしてもプレーでき、中盤もこなせるユーティリティープレーヤーである。父親のアルノールもアイスランド代表選手(FW)だった。
1995年、17歳の時にバルル・レイキャヴィークでプロデビューし、翌年には代表入りも果たした。すぐにPSVアイントホーフェンからオファーが届き移籍する。2年間在籍したものの、ポジション争いの相手がロナウドであったため出場機会は少なく、怪我もあり一旦母国に戻った。1998年に入団したプレミアリーグのボルトン・ワンダラーズFCでようやく活躍の場を得、2000年にチェルシーFCに引き抜かれてジャンフランコ・ゾラやジミー・フロイド・ハッセルバインクらと魅力的な攻撃陣を形成した。
2003年にロマン・アブラモヴィッチがチームオーナーに就任すると、豊富な資金力で続々世界的なアタッカーを獲得し、グジョンセンの名が放出候補に挙がった。しかし出場すれば高いパフォーマンスを見せ、他のフォワードが不振に陥る中、グジョンセンの評価は益々高まった。2004年からチェルシーの監督に就任したジョゼ・モウリーニョの下では、センターMFとしても起用される事が多かった。フランク・ランパードと組む中盤は得点能力、運動量ともに高く相手チームの脅威の的であった。
しかし、チェルシーが更にアンドレイ・シェフチェンコ、ミヒャエル・バラックなどの大型補強を行うに当たって、2006年にヘンリク・ラーションの後釜としてリーガ・エスパニョーラのバルセロナに移籍。推定1200+300万ユーロ。移籍直後の2006-07シーズンはセンターフォワードとして起用されていたが、バルセロナ、リーガのサッカーに馴染めず、期待外れに終わった。続く2007-08シーズンからは中盤への転向を自ら志願すると果敢でタイミングの良い飛び出しを活かしてコンバートに成功、2008-09シーズンには新監督ジョゼップ・グアルディオラの信頼を勝ち取った。しかしシーズン終了後、ASモナコに移籍した。2010年1月、トッテナム・ホットスパーFCへレンタル移籍し4シーズンぶりにプレミアリーグに復帰した。
2010-11シーズンからはストーク・シティFCへ移籍したが出場機会は乏しく、2011年1月にはフラムFCへレンタル移籍。
父アルノールと代表で一緒だった事があり、エイドゥルの代表デビューはアルノールからエイドゥルへ親子で途中交代という珍しいものだった。当時の年齢はアルノールが34歳、エイドゥルが17歳である。ただし直後にアルノールが怪我で引退したため、親子で同じピッチに立つという夢にまでは叶わなかった。現在は父が彼の代理人を努めている。
かつてはギャンブルに金をつぎ込んだり、飲酒運転で警察沙汰になるなど私生活面では悪童としても知られたが、スペイン移籍後は私生活面での問題はほとんど聞かれなくなった。
息子のスヴェイン・グジョンセンはFCバルセロナのカンテラに所属している。ポジションはDF。
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