「東欧(バルカン)のマラドーナ」と呼ばれた、ルーマニア史上最高の選手にして1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人。
ゲームメーカーとして中盤に君臨し、左足から放たれるパス、ドリブルによって多くのチャンスを演出した。また、ゲームメイクだけでなく自ら得点を狙う事ができる、いわば典型的な10番タイプの選手である。ただし、短気な性格からよくカードをもらう事もあり、天才肌な選手といえる。
ルーマニア代表の中心選手として、1983年から2000年まで実に17年間に渡り選出され、3度のワールドカップ出場に導くなど同国の躍進に貢献。代表通算35得点はルーマニア歴代最多記録である。
1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で25位に選出された。
2004年3月、ペレが選んだ『FIFA 100』で同国から唯一選定された。
ルーマニア国内では早くからその才能が注目され、1982年に17歳でファルル・コンスタンツァへ入団。翌年にはルーマニア代表に選出され、1984年に19歳でユーロ1984に出場。同じく十代での出場となったストイコビッチやシーフォらと共に若きスター候補として注目される。
1987年には国内の強豪ステアウア・ブカレストへ移籍し、1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準優勝。1990年にはルーマニアを20年ぶりのワールドカップ出場に導いた。ワールドカップ・イタリア大会ベスト16進出に貢献すると、活躍が認められスペインの名門レアル・マドリードへ移籍したが、環境に馴染めずイタリアのブレシアへ移籍した。
ハジが世界的に有名になるきっかけとなったのが、1994年ワールドカップでのルーマニアの躍進であった。ハジは背番号10、キャプテンとしてルーマニア攻撃陣の核となり、1次リーグ第1戦、バルデラマ、アスプリージャらを擁し優勝候補の一角と目されたコロンビアを3-1で粉砕。この試合でハジは2点目のロングシュート(相手GKのポジショニングミスを突いた左サイドからの30mのロングシュート)を始めルーマニアの3点全てに絡む活躍をみせた。その後も決勝トーナメント1回戦で優勝候補のアルゼンチンを3-2で下すなど、ハジを中心とした電光石火のカウンターアタックで強豪と渡り合った。
大会終了後にFCバルセロナに移籍。同じくワールドカップで活躍したストイチコフやロマーリオなどとクライフ監督の下でドリームチームの一員となったが、出場機会に恵まれず本領を発揮出来なかった。1996年にトルコのガラタサライへ移籍するが、ここで再び輝きを取り戻す事になった。
1996年当時、トルコサッカーはヨーロッパの中堅国の一つであり、代表チームは強豪国の厚い壁に阻まれワールドカップ出場も適わず、クラブレベルにおいてもUEFAチャンピオンズリーグでは大会本戦出場はおろか予備予選を突破する事すらもままならない状況であった。そんな中、ハジはクラブ関係者からの強い要請とバルサでの出場機会激減を期にガラタサライに移籍した。彼はチームのキャプテンとしてだけでなく「サッカー選手としての心得」「プロとしての心得」をガラダサライの選手たちに植え付け、後のトルコサッカー界隆盛の礎を築く。そして2000年のUEFAカップ優勝を成し遂げ、ガラタサライの名とトルコサッカーの名を国際的なものへと押し上げた。
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