サッカーを始めたのは7歳の時。シメナフットボールスクールを経て、ゼニトユースにて育成される。ゼニトセカンドチームで多くの経験を積んだ後、2000-01シーズンのUEFAインタートトカップのブラッドフォード戦(2000年8月2日)でトップチームデビューを果たす。
2001-02シーズンよりレギュラーとしての地位を確立。同年代であるケルジャコフとのコンビでチームを牽引し、2002-03シーズンにはロシアリーグカップを制した。2005-06シーズンにはUEFAカップベスト8進出に貢献する。2006-07シーズンには13アシスト7得点でリーグ最優秀選手賞を獲得すると、2007-08シーズンには11アシスト10得点を記録、チームも1984年以来のリーグ優勝を達成する。同シーズンのUEFAカップでは準決勝でドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンに圧勝し、勢いに乗ったまま迎えた決勝でもレンジャーズを破り、ゼニト初優勝の立役者となった。2008年8月の行われたUEFAスーパーカップでも欧州王者のマンチェスター・ユナイテッドを破りクラブ初の栄冠を手にする。後述のEURO2008を境に、欧州リーグの多くの強豪クラブが彼の獲得に動き出していたが、多額の移籍金などにより夏の移籍は叶わなかった。2009年2月、かねてよりアルシャヴィンへ興味を示していたプレミアリーグのアーセナルFCへの移籍を果たす。(移籍金は未公表)
2009年2月22日のサンダーランド戦でプレミアリーグデビューを果たす。強烈なシュートを放ち鋭いクロスを上げるなど、デビュー戦からその実力の片鱗を示した。3月14日のブラックバーン戦では左サイドの角度のない位置から目の覚めるようなゴールを叩き込みアーセナル移籍後初ゴールを記録する。ここから更にシーズン終盤へ向けて調子を上げ、4月21日リヴァプール戦で自身初となる1試合4得点を達成する。シーズン後半だけの出場、またプレミアリーグ初挑戦ながら公式戦15試合で6得点9アシストという驚異的な数字を残した。
2010-11シーズンでは、リーグでは6得点、アシスト数ではセスク・ファブレガスに次ぐ11を記録した。
2002 FIFAワールドカップを目前にした時期に、イゴール・セムショフ、デニス・ラクチオノフとともにロシア代表に初招集された。2002年5月17日のベラルーシ戦で国際Aマッチ初キャップを記録したが、ワールドカップのメンバーには選ばれなかった。FW最後の枠はケルジャコフが選ばれている。代表初ゴールは、2003年2月13日のルーマニア戦(キプロス4か国トーナメント)。
EURO2008予選までは、キャプテンを務めていた。予選最終戦のアンドラ戦で、暴行により退場処分となり、2試合(EURO2008のグループリーグの最初の2試合)の出場停止処分を科され、ヒディンク監督からキャプテンの座を剥奪されてしまう(次期キャプテンは、セルゲイ・セマク)。
しかし、EURO2008グループリーグの第3節スウェーデン戦から復帰すると、たちまち素晴らしい活躍を見せ、オランダ戦では幾度と無く敵陣を切り裂き、オランダのDF陣を翻弄した。さらに1-1で迎えた延長戦、ペナルティエリア内で緩急をつけた見事なドリブルを披露。一瞬で相手DFを置き去りにすると、タッチラインギリギリからGKファン・デル・サールの頭上を越す芸術的かつ高精度のクロスボールを蹴り、ドミトリ・トルビンスキの得点をアシスト。さらに、運動量の落ち始めていたオランダの隙をつき、相手ゴール付近でのスローインを、トラップせずに素早く反転してシュート。試合を決定づける貴重な3点目を決めた。世界に衝撃を与えるプレーを連発した彼は「新皇帝の誕生」と称えられ、その名を世界に轟かせた。
2009年6月のフィンランド戦からキャプテンに復帰している。
ゴールを決めた際には、口に人差し指を当てるパフォーマンスを見せる。また、試合中に舌を出すこともある。理由のひとつとしては“マイケル・ジョーダン”である。舌を出すくせはジョーダンの真似ではないと語ったものの、ジョーダンのプレーが大好きであり、彼との共通点も喜んでいた。
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