シュートテクニックの高さは元チームメイトで史上屈指のフォワードであるデニス・ベルカンプやティエリ・アンリから絶賛された。また両ウィング、センターフォワード、セカンドトップなど、数多くのポジションをこなせるユーティリティー性を持つ。 安定したポストプレーもこなせ、左足でのフリーキックはパワフルで迫力満点。怪我が多いのが玉に瑕とも言われる。
オランダ代表で共にプレーするヴェスレイ・スナイデルとはたびたび衝突しており、EURO2008の時は、チームではスナイデルがFKを任されていたのにも関わらず、ある試合でファン・ペルシが勝手に蹴ったことでトラブルになり、2010
FIFAワールドカップでは、ある試合で、ファン・ペルシが途中交代を命じられた時、ベルト・ファン・マルワイク監督に、「スナイデルも交代させるべきだ」とささやいたとされる映像が公開され問題となった。
2010 FIFAワールドカップでは、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベン、ラファエル・ファン・デル・ファールトをあわせた4人で、その豪華さからフローテ・フィール(ビッグ4の意)と呼ばれた。
2009年9月に開催されたオランダVS日本戦を前にしたインタビューで、フェイエノールトで同僚だった小野伸二の近況に「けがで挫折したことは本当に残念。それがなければ本当にすごい選手だったのに」と回想。日本代表から遠ざかってしまっている事に対して「彼はまだそんなに年じゃないよね。30歳でしょ。本当に残念」と話した。
エクセルシオール・ロッテルダムユースからフェイエノールトユースを経て2002年にトップチームにデビューし、すぐに頭角を現す。この年UEFAカップ優勝も経験。U-19、U-21オランダ代表にも選出された。フェイエノールト時代は左ウィングとしての起用がほとんどであった。
2004年には初の国外挑戦として数多くのオファーの中から、プレミアリーグのアーセナルを選択。アーセナルでは同じオランダ人という事もあり、移籍当初からデニス・ベルカンプの後釜として期待されていた。2006-07シーズンには衰えを見せ始めた絶対的エースのティエリ・アンリに代わりエース級の活躍を見せるも、骨折によりシーズン終了までの離脱を余儀なくされた。
2007-08シーズン序盤はアンリの抜けた前線で獅子奮迅の活躍でチームを鼓舞したが、代表戦での怪我で半年近くの離脱。またも怪我に苦しめられた。2008-09シーズンは大きな怪我も無くシーズンを通して安定感を見せ、11アシストを記録してプレミアリーグのアシスト王に輝いた。2009年夏、アーセナルとの契約を2014年6月まで延長した。
2010-11シーズンではシーズン序盤こそ怪我で欠場していたが、怪我から復帰以降はゴールを量産。リーグ戦ではアウェーゲームで8試合連続ゴールを記録(最終的にリーグ18得点を記録)、またカーリングカップ決勝でも得点をあげた。しかし、チームとしては前述のカーリングカップでショッキングな敗退を喫し、カンプノウでのチャンピオンズリーグ・バルセロナ戦2ndレグでは当人の遅延行為により退場してしまい、1stレグで勝利していたが、2ndレグで逆転され敗退してしまった。プレミアリーグでも後半の失速が響き優勝前線から離脱。チームの主力でもあるファンペルシにとって、悔いの残るシーズンとなった。
2005年6月にはルーマニア戦でオランダ代表デビューを果たし、2006年のドイツワールドカップにも出場。グループリーグのコートジボワール戦で強烈なフリーキックを決めるなどオランダの予選突破に貢献した。EURO2008ではスーパーサブとして2得点を挙げる活躍を見せ、グループリーグでのオランダの快進撃に貢献した。2010 FIFAワールドカップにも出場し、チームは準優勝したが、自身はカメルーン戦の1得点のみに終わった。
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