現代サッカー最高峰の選手の一人だが、国際タイトルにはまったく縁がなく、チャンピオンズリーグ、ワールドカップ、欧州選手権ともに最高成績が準優勝ということからシルバーコレクターという不名誉な通称を持つ。「シルバー四冠」を2度達成した。しかしUEFAチャンピオンズリーグにおいては、2つのクラブで、それぞれのクラブ史上初の決勝進出へと導く大きな原動力となっている。ちなみに2001-02シーズンのブンデスリーガでは得点ランクもマルシオ・アモローゾ、マルティン・マックスの18得点に次ぐ17得点で2位だった。
1997年、ブンデスリーガ・カイザースラウテルンに入団。2年目よりレギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。1999年にバイヤー・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集された。2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。
2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。
その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝(kleiner
Kaiser)」と呼ばれていた。
2006年5月、プレミアリーグのチェルシーに移籍。
2007年4月ニューカッスル戦で相手選手との接触により左足首を負傷。以降2度に渡って手術をし、8ヶ月の戦線離脱となる。しかし足首の負傷が完治した2007年12月以降はパフォーマンスも向上し、完全に復調。イングランドでのスタイルにも適応し、チャンピオンズリーグではクラブ史上初の決勝進出への原動力となった。
2009-10年シーズンは、プレミアリーグ2009-2010において32試合に出場し、チェルシーの4シーズンぶりのプレミアリーグ優勝に貢献。しかしシーズン最終戦であるFAカップ決勝のポーツマス戦で靭帯を痛め、W杯出場が絶望的となった。チェルシーでは4シーズンでリーグ戦105試合に出場した。2010年夏、契約満了によりチェルシーを退団し、2010年6月25日には母国ブンデスリーガのバイヤー・レバークーゼンへ復帰した。
ドイツ代表には1999年4月28日のスコットランド戦で代表デビューを果たす。2002 FIFAワールドカップ準決勝の韓国戦では、イエローカードをもらうと累積警告で決勝に出場できなくなる事を知りながら、味方のミスをカバーする為に戦術的ファウルを犯しイエローカードをもらう。直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げた。欠場した決勝には敗れて準優勝に終わった。
ユルゲン・クリンスマンが2004年に代表監督に就任すると東ドイツ出身の選手として初めてキャプテンに指名された。自国開催となる2006 FIFAワールドカップでは得点こそできなかったが、その構成力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。
EURO2008ではグループリーグのオーストリア戦で決勝点を挙げるなどチームの準優勝に貢献した。
2010 FIFAワールドカップは、前述5月の負傷により欠場となった。ポーツマスMFのケヴィン=プリンス・ボアテングによるタックルによるもので、右足首靭帯断裂と診断された。
2011年6月には、ドイツサッカー連盟から代表引退が発表された。しかし、バラック自身はこの発表に不満を持っており、引退試合への出場も拒否している。
ドイツ年間最優秀選手賞を3度受賞しており、ベッケンバウアーの4度に次ぐ数字である。
前述のアゼルバイジャン戦での先制点で通算得点数を42とし、歴代ドイツ代表において7位に位置する。中盤の選手としてのバラックの並外れた得点能力を示す数字といえる。
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