1993年、リーグ・アンのFCナントでキャリアをスタートし、フランス国籍を獲得。身体能力の高さを活かした活躍が評価され、1995年7月22日のノルウェー戦でフランス代表デビューを果たす。また1995-96シーズンではUEFAチャンピオンズリーグベスト4進出に貢献した。さらにその年に、アトランタ五輪にフランス代表として出場するがベスト8で敗退。
その後オリンピック・マルセイユを経て、1998年にリーガ・エスパニョーラのセルタ・デ・ビーゴへ移籍。2000年にはレアル・マドリードへ移籍し、超攻撃的サッカーを標榜するスター集団の中において、中盤の守備を担うハードワーカーとして活躍し、2001-02シーズンにはチャンピオンズリーグの制覇に貢献。当時のチームメイトから「彼こそ、俺たちのバロンドールだ」という、最大級の賛辞が送られた。2002年、フランス代表は日韓W杯に出場するが、マケレレは出場機会に恵まれず、FWの不調やエースジネディーヌ・ジダンの故障も響きグループリーグで敗退する。しかし、クラブでは攻撃重視の選手を擁する中盤の底で守備を担い、イバン・エルゲラや最終ラインを支えるフェルナンド・イエロと共に守備の役割をしっかりとこなし、チームに欠かせない存在であった。
2002-2003シーズン終了後、給料の問題などもありレアル・マドリードを退団。もっともマケレレ自身は後のインタビューの中で、自身の仕事に敬意を払われなかったことが問題なのであり、当時のレアル・マドリードの会長、フロレンティーノ・ペレスに「どんなに金を積まれても、私は出て行く」と言ったと述べている。その後ロシアの石油王、ロマン・アブラモヴィッチが新オーナーとなったチェルシーへ移籍し、持ち前の守備力でレアル・マドリード時代と同様に中心選手として活躍。2004-05、2005-06シーズンにはFAプレミアリーグ優勝を果たした。
また、EURO2004以降代表から遠ざかっていたが、2006年ドイツW杯の欧州予選でフランス代表は予選敗退の危機を迎える。ドメネク監督の希望によりジダン、リリアン・テュラムとともに代表に復帰し、見事土壇場からの予選通過に貢献する。2006年5月15日、本選出場メンバーに選ばれ決勝戦まで進んだが、PK戦の末に準優勝に終わる。W杯終了後、地元のTV局のインタビューで、代表引退を明らかにしたが、ユーロ2008の予選でドメネク監督に招集され、モウリーニョ監督を巻き込み騒動となった。EURO2008本大会にも招集されたものの、チームはグループリーグ敗退。改めてマケレレは代表引退を発表した。代表引退の記者会見の席で、フランス代表としてはメジャーなタイトルを得られなかったことについてマケレレは「フランス代表のユニフォームを着ることができたことが、私のトロフィーだ」と語っている。
2008年7月21日、パリ・サンジェルマンFCがマケレレの獲得に関してチェルシーと合意。2010-11シーズン終了後に現役を引退した。
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