対人プレー、特に空中戦に滅法強く、セットプレー時には高さを活かしたヘッドで得点も取れる。反面、速さや敏捷性に乏しく、スピードとテクニックで勝負するタイプを苦手としている。ジダンの頭突きにより一躍有名になった。
イタリア代表として2001年4月の南アフリカ戦で27歳にして初キャップを記録。アレッサンドロ・ネスタ、ファビオ・カンナヴァーロに次ぐセンターバックとして、2002年と2006年FIFAワールドカップに出場した。
2002年日韓ワールドカップはパオロ・マルディーニが健在だったこともあり、予選ラウンドクロアチア戦でネスタの負傷退場による、途中交代での出場となったが、その試合の全失点の責任を問われるプレイ内容に終始、同大会において以後の出場機会を得られなかった。
2006年ドイツW杯では、予選ラウンドのチェコ戦で四年前同様にネスタが負傷退場。交代出場でピッチに立つと決勝点を決め、マン・オブザ・マッチに選ばれた。なお、これが代表初ゴールであった。その後はネスタの代わりにレギュラーとして出場し、出場停止だったウクライナ戦を除くすべての試合でカンナヴァーロ、ジャンルイジ・ブッフォンらと共に鉄壁のディフェンスを築いた。
決勝戦ではフランス代表の先制点となるPKを献上するファウルを犯すが、その後にコーナーキックからのヘディングで自ら同点ゴールを叩き込み、PK戦では2人目のキッカーとして成功させるなど独擅場で活躍。イタリア代表の24年ぶり4回目の優勝に貢献し、ジダンの頭突きの被害者となったことも相まって大きなインパクトを残した。
2000-2001シーズン中、通算12得点を挙げた。当時これはDFとしての最高得点であり、12ゴール目を決めた際ユニホームの下に着ていたシャツに書かれた「RECORD」の文字を披露した。
子煩悩で知られており、練習や合宿にも常に子供をつれて来る。しかし、息子がACミランのファンである事には複雑な感情を抱いているという。
新しく加入した選手が場に溶け込めるよう積極的に気を配り、チーム内での信頼は常に厚い。また、ペルージャ所属時代にチームメイトのファビオ・リヴェラーニが黒人差別的な野次を受けたのに憤慨し、以後は人種差別撤廃運動にも積極的に参加している。
見かけによらずお酒が全く飲めない。
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