豊富な運動量で攻守に渡って貢献し、細かいタッチのドリブルが特長。ディフェンダーは思わず危険な位置でファウルしてしまうこともある。右足からのクロスも非常に正確な上に緩急を状況に応じて的確に使い分ける。調子にやや波があり、毎試合その能力を発揮できない事が難点だが、それも年を追うごとに改善されてきている。
2006年のドイツW杯で優勝を決めた後、かねてからチームメートと約束していたとおりに、長髪の結わいでいた部分を切り落とした。ちなみに、この期間のヘアスタイルは一部のサッカーファンから侍ヘアと呼ばれ笑いを誘った。
ギター演奏が趣味で、チームメイトが言うにはかなりの腕前であるという。
メキシコのサントス・ラグナ、ウルグアイのモンテビデオ・ワンダラーズFC、アルゼンチンのCAバンフィエルド、メキシコのクルス・アスルと渡り歩いた後、2000年にイタリアのエラス・ヴェローナに移籍。ここでの献身的なプレーが評価され、2002年にマルチェロ・リッピ監督率いるユヴェントスへ移籍した。
当初はジャンルカ・ザンブロッタの控えと目されていたが、大方の予想に反して、効果的なプレーを連発。また、ザンブロッタが左サイドバックにコンバートされた事もあってレギュラーの座を獲得。2004年から監督がファビオ・カペッロに変わった後も、中盤右サイドのポジションを務めた。(この間、ユヴェントスは2シーズンともセリエAで優勝しているが、後述のカルチョ・スキャンダルにより2度とも優勝は取り消された)
その後、カルチョ・スキャンダルによりユヴェントスのセリエB降格が決定すると、他クラブへの移籍を希望したが、ディディエ・デシャン監督(当時)の意向でユヴェントスに残留。セリエA昇格に貢献した。
2007年、監督がクラウディオ・ラニエリに代わった後もレギュラーとしてプレーし、怪我により長期離脱するとその間ユヴェントスの攻撃は機能せず、存在の大きさを浮き彫りにした。復帰後は好調を維持し、2008年にクラブがUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得という目標を達成(セリエAでの順位は3位)する原動力となった。
2009年、監督がチロ・フェラーラに交代。ユベントスの基本フォーメーションがフラット4-4-2から4-3-1-2に変更された。怪我がちではあるが、代表と同じトリプルボランチの右を主戦場に、緊急時にはトップ下をこなすなど活躍している。
2010年8月にユヴェントスとの契約を解消し、VfBシュトゥットガルトに移籍した。 しかしチームに満足に馴染むことが出来ず、2011年1月にVfBシュトゥットガルトとの契約を解除した。
2011年2月、アルゼンチンのCAラヌースと2年契約を結んだ。
2003年に祖父がイタリア人であった事からイタリアに帰化。イタリア代表入りも果たし、同年2月12日のポルトガル代表戦で代表デビューを飾ると、翌年のUEFA欧州選手権2004に出場した。
そして2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では、同年にカルチョ・スキャンダルが発覚し、所属するユヴェントスやイタリアサッカー界が暗いムードに包まれる中、ジェンナーロ・ガットゥーゾ、アンドレア・ピルロ、ダニエレ・デ・ロッシらとトリプルボランチを形成。自身が飛躍するきっかけとなったリッピ監督の下で4度目のワールドカップ制覇に貢献した。
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