ビーボアというホルヴェクのチームでプロデビュー、弱小クラブの一員であったために無名の時代を過ごした。しかしチームが財政難のためにFCコペンハーゲンへと売り渡される。
FCコペンハーゲンでは移籍初年度のリーグ優勝に貢献するなどチームの核となり大活躍、一躍デンマークのスターになる。さらに、この年のUEFAカップでの活躍を認められシャルケ04へと籍を移す。
シャルケ04でもコペンハーゲン時代同様チームの中心へと成長、デンマーク最優秀選手に選出されるなどさらなるステップアップを見せた。
2006年には2月にビジャレアルとの4年契約を結び移籍が決まっていたが、夏に更に良い待遇を提示したACミランに移籍することを発表。双方の主張が入り乱れて移籍問題が発生し物議を醸す結果となった。このため、表向きにはミランのフィットネステストに失格したことにより両チームが獲得を見送るという形で決着した。その後セビージャFCへと移籍した。
代表としては2001年11月のオランダ戦にて初キャップ、この試合で堂々のプレーを見せ代表定着を果たす。2002 FIFAワールドカップ、EURO
2004に出場し、それぞれベスト16、ベスト8入りを果たしている。
2007-08シーズン終了後、セビージャFCのチームメイト、セイドゥ・ケイタ、ダニエウ・アウヴェスと共にスペインのFCバルセロナへの移籍が噂されていたが、一転イタリアのユヴェントスに975万ユーロの移籍金で移籍した。
2008-09シーズン前のプレシーズンマッチでは評価が上々だったポウルセンではあるが、いざシーズンに入ると良いパフォーマンスを見せられなくなり、出場機会も激減した。
そのためシーズン終了後、ポウルセンはギリシャやトルコのクラブへ放出されそうになった。 しかし、本人が頑なに拒んで(本人はプレー機会のため移籍も考慮していたが、妻が生活レベルが低下する国を嫌ったという)ユヴェントスに残留することとなった。
その身代わりとして活躍はしていたが怪我がちなザネッティがフィオレンティーナに放出され、クラブの取捨選択が議論の的となった。 ただ、ポウルセンは我がままを通しただけというわけではなく、一時的に戦力外通告されても練習に真摯に取り組む姿勢をクラブ側が評価したという面もある。
2010-11シーズン前、リヴァプールFCに移籍した。移籍金は547.5万ユーロ(後にユベントスにはアルベルト・アクィラーニが移籍しており実質的なトレードとなった)。
EURO2004では彼の執拗なマークを受け苛ついていたフランチェスコ・トッティに唾を吐きかけられ、トッティが3試合出場停止処分を受けた。しかし、CLのシャルケ対ACミラン戦において彼の執拗なラフプレーを受けたカカは、この時のトッティの気持ちに同調するような発言をしている。
|