ストライカーとして優れたシュート技術を誇り、DFを背負った状態から素早く反してのュートが得意。密集したペナルティエリア内での難しいボールを、自分のシュートしやすい場所にコントロールする技術も有している。ボールへの反応や、裏のスペースへの抜け出しなどのスピードにも優れ、どんな体勢でも抜け目なくゴールを決めてしまう。
イタリアのU-21欧州選手権優勝に貢献し、エースとして臨んだアテネオリンピックでは4得点を上げ、イタリアオリンピック代表の銅メダル獲得に大貢献。その直後の2004年9月4日ノルウェー戦にてイタリア代表デビューし、2006年のドイツワールドカップではイタリア代表のエースとして期待されたが、イタリアはワールドカップ優勝を果たしたものの1得点にとどまった。その後はスランプに陥ったのか、2年後の2008年UEFAヨーロッパ選手権
(EURO2008) では代表に選ばれなかった。
2003-04シーズンのセリエAでは23ゴールを決め、アドリアーノが移籍したパルマをUEFA圏内に導いた。続く2004-05シーズンでも23ゴールを決め、パルマのセリエA残留に大貢献。2005年の夏に2,400万ユーロ(約32億4,000万円)でイタリアの名門クラブであるACミランに移籍。
ACミランでの戦績は3シーズンで36ゴール。最初の2シーズンで29ゴールを挙げたのに対し、3年目はパフォーマンスが下がり出場機会が激減。2008年夏にパルマ時代の恩師、チェーザレ・プランデッリ率いるフィオレンティーナに5年契約、移籍金1400万ユーロ
(約23億円)で移籍する。恩師の元での復活が期待される。
移籍後初のシーズンとなった2008-2009シーズンでは、相次ぐ主力の離脱に苦しむチームの中にありながらもリーグ戦19ゴールとチームを牽引し、CL出場権獲得に大きく貢献した。また、この活躍やイタリア代表の監督にマルチェロ・リッピが再就任したこともあり、イタリア代表にも復帰した。
2008年10月18日に行われたセリエA第7節レッジーナ戦に於いて途中交代ながら2ゴールを決め、セリエA通算100ゴールを達成した。
2009年10月10日のW杯予選・アイルランド戦において試合終了間際の同点ゴールでチームのW杯出場を決めると、続く2009年10月14日のキプロス戦では2点リードされた状態から3ゴールを決め逆転に貢献。代表では自身初のハットトリックを達成した。
ACミランではアンドレア・ピルロやアレッサンドロ・ネスタと仲が良く、一緒にプレイステーションで遊ぶという一面もある。
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