フィジカルに優れているわけではないが、スピード、テクニックに卓越したものを持つ。相手プレイヤーのディフェンスラインを鋭い動き出しとクイックネスで突破していく。特に注目すべきはドリブルに代表されるボールを持ったときのテクニックで、その能力は高く評価される。センターフォワードとしてもセカンドトップとしてもプレー出来る柔軟性も武器である。怪我をしやすいことと、やや気性が荒いことが欠点である。
地元クラブ、エル・マスリでユース時代を過ごす。既にその卓越したテクニックを噂されていた彼はデンマーク・スーペルリーガの1部に所属するABコペンハーゲンに引き抜かれ、コペンハーゲンの地から欧州挑戦を始める。ここでは4シーズン在籍して12ゴールをマークしたが、2003-2004シーズンには同じリーグのFCミッティランドに移籍。ここでチャンスを掴んだジダンは19得点を挙げてリーグ得点王に輝き、「もうひとりのジダン」として少しずつ欧州の注目を集め始める。
2004-2005シーズンに入っても快調に得点を重ね続けたジダンにはその冬、ドイツのみならず欧州で存在感を増しつつあった強豪、ヴェルダー・ブレーメンからのオファーが届く。超の付く攻撃サッカーを志向するブレーメンへの移籍は彼にとって更なる飛躍になるであろうと大きな期待が寄せられたが、ミロスラフ・クローゼやイバン・クラスニッチと言ったブンデスリーガを代表するストライカーたちの間に割って入るまでには至らなかった。2005-2006シーズンの冬、ジダンは出場機会を求めて残留争いの直中で喘ぐブンデスリーガの小クラブ、1.FSVマインツ05にレンタルで加入する道を選ぶ。
そして「残留請負人」のような形でマインツに加入したジダンは、その期待に違わず素晴らしいパフォーマンスを披露。後半戦の17試合で7ゴールを挙げるだけでなく精力的にチャンスメイクもこなし、「残留は厳しい」との見方が大勢を占めていたマインツを11位にまで押し上げる原動力となった。シーズン終了後は現場やファンだけでなくジダン自らも残留を希望したが、小クラブであるマインツに彼を買い取るだけの財力はなく、レンタル期間終了と共にブレーメンへの復帰が決まった。
マインツで築いた実績と自信を引っ提げてブレーメンに戻ったジダンだったが、2006-2007シーズンに入っても厳しいレギュラー争いにほとんど加わることが出来ず、再び移籍を希望する。「クラブの名前ではない、自分を必要としてくれるクラブに完全移籍で移りたい」と熱望するジダンにブレーメンはケガ人事情などもあって移籍を渋るが、最終的に「自分を必要としてくれるクラブ」・マインツとの移籍交渉がまとまりシーズン途中での完全移籍が決定した(推定移籍金はマインツ史上最多金額とされる280万ユーロ)。
前半戦を終えてリーグ最下位に沈んだマインツの救世主として、同じブレーメン所属のレオン・アンドレアセンと共にやって来たジダンはすぐにチームにフィット。出場15試合で13得点と驚異的なペースでゴールを重ねチームの反攻に貢献するが、奮闘実らず勝ち点3差で降格が決定した。しかしブンデスリーガでその実力をついに証明した「旬」のストライカーとして、他のブンデス1部のクラブなどが獲得に動いた結果、2007-08シーズンからは1部残留を決めたハンブルガーSVでプレーすることとなった(完全移籍、推定移籍金500万ユーロ)。
2008-09シーズン開幕後、ムラデン・ペトリッチとトレードされる形で、マインツ時代の恩師ユルゲン・クロップ監督がいるボルシア・ドルトムントに移籍した。
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