大田区大森北の明善幼稚園卒園後、少年/少女サッカークラブである入一SC(入新井第一小サッカークラブ)でサッカーを始める。のちに東京ガスサッカースクールに所属し、中学時代に読売メニーナ(読売ベレーザの下部チーム)に入団。1997年、第18回全日本女子サッカー選手権大会に出場登録される。
東京経営短期大学村田女子高等学校(現:村田女子高等学校)に進学しメニーナを退団、高校のサッカー部でのプレーを選び3年の時には全国3位となった。この頃は大田区山王にある急坂を連日のように百回ダッシュするトレーニングを積んだ[1]。2002年、日本体育大学体育学部体育学科に進み、大学女子リーグで活躍全日本大学女子サッカー選手権大会インカレでも優勝(2連覇)を経験している、この時にサッカー女子日本代表初選出。
在学中の2003年に2003 FIFA女子ワールドカップ、2004年のアテネオリンピック等に出場。
2005年に東京電力へ就職し、同時にL・リーグ(現・なでしこリーグ)の東京電力女子サッカー部マリーゼに入団。8得点をあげて同年の新人王を受賞した。
2008年、北京オリンピックにおけるサッカー競技日本代表に選出された。
2009年シーズンをもって東京電力女子サッカー部マリーゼを退団した。同時に東京電力を退職し、2010年、フィラデルフィア・インデペンデンス(WPS)への移籍が決定、移籍後試合には4回出場している。同年9月17日、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースへの移籍が発表され現在にいたる。
2011年4月には自身のブログで、かつて勤務地だった福島第一原子力発電所事故の対応に苦戦する東京電力を気遣い「私は、東電社員だったことを誇りに思うし、今原発内にいる東電社員の方々を本当に誇りに思います。予想外の津波がきて、原発での事故が起こってしまった。でも誰も悪くない。東電が悪いわけじゃない」と書き込んだことにより、非難も受けた。
2011年7月、FIFA女子ワールドカップにも出場。準々決勝の地元ドイツ戦では、延長戦にて澤穂希の浮き球のパスからゴールを決めた。これが決勝点となり、日本女子代表はワールドカップで初めてベスト4に進出した。その後、決勝戦に進出し日本の初優勝に貢献した。
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