 |
 |
国籍 |
オランダ |
生年月日 |
1976/04/01 |
ポジション |
MF |
身長・体重 |
176cm80kg |
特徴 |
万能MF |
|
|

|
▼選手紹介▼プレースタイル
優れたテクニックと素晴らしい体力、暖急 ・長短織り交ぜた正確なパス、ミドル・ロングシュートに強靭なフィジカル、高い守備 能力を持つ、総合力の非常に高いプレーヤー。どの戦術にも適応出来る頭脳も併せ持つ。20歳になった辺りにおいて、精神面に若干の若さは感じさせたものの、卓越した戦術眼、完成されたフィジカルは、つねに20歳の選手とは思えないほど優れていた。中でも、テクニックに関して、ジネディーヌ・ジダンをも凌ぐと評価されている。
3度CLファイナル進出を果たし、うち2回優勝を成し遂げた、カルロ・アンチェロッティ期のミランにおいて、中盤の4人のダイヤモンド型(ピルロ、ガットゥーゾ、セードルフ、カカ)は、決して揺るぎないものであった。ベテランの域に差し掛かったセードルフは、プレーの安定感に欠ける場面も見られ、ミランサポーターから激しいブーイングを受けることがある。しかし、ブーイングに全く屈することなく(交代時に拍手をしてそれに応じる場面が見受けられる。)、近年は後半戦にかけて調子を上げ、2010-11シーズンにはミラン7期ぶりのスクデット獲得(優勝)に貢献するなどメンタルも強い。(本人はシーズン後半に向け、調子のピークを合わせていると語っている。)また、UEFAチャンピオンズリーグなどの大舞台にめっぽう強い。戦術理解力が高く、中盤(MF)はほぼ全てのエリアをプレーでき、セカンド・ストライカーとしてもプレー出来る。
スリナムの首都、パラマリボ出身。名門アヤックス・アカデミー出身。
同期には、パトリック・クライファートやレミー・ボンヤスキーがいる。
数多くの名選手を輩出してきたアヤックス・アカデミーにおいても、"最高傑作"と言われている。
また、学業においても非常に優秀である。
その一面として、超一流のサッカー選手でありながら、会社経営にも真剣に取り組み、練習場には、他の選手たちはそれぞれ自慢のスポーツカーでやってくるそうであるが、彼は運転することはなく、経済紙を読む時間として充てている。
2011年4月28日、オランダ王家であるオラニエ・ナッサウ家から"ナイト"の勲章を与えられた。同賞は「社会に対して特別な貢献をもたらした者」に与えるとされており、長年のサッカー界への貢献と、児童たちへの教育支援基金活動などが評価された。イタリアにおけるオランダ大使としても評価された模様である。
異なる3つのクラブ(アヤックス・アムステルダム、レアル・マドリード、ACミラン)でのUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げたのは歴代でセードルフ唯一人だけである。
複数の国でプレーしてきたため、語学力に長けている。母国語のオランダ語の他、英語、イタリア語やスペイン語、更にはポルトガル語も自由に操ることができるマルチリンガルである。
オランダ代表、レアル・マドリード、インテル、ACミランで背番号10をつけている。
かつては、特に代表チームにおいて自身の望み通りのポジション・背番号を強く要求し、叶わなければ試合を欠場すると公然と言い放つなど、エゴの強さで知られていた。こういった言動は加齢と共に落ち着き、近年では殆ど見られない。
スリナムで生まれたセードルフは、スリナムの子どもたちへの支援・基金活動に積極的に取り組んでいることで知られ、私財を投じて学校や病院、スポーツ施設などを建設している。自身4度目のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた時にもスリナムを訪問し、そのビッグイヤーを披露するとともに、チャリティー活動を行った。
ミラノで人気日本食レストラン(Finger's)を経営している。
1992年11月29日(1992-93シーズン)、エールディヴィジ、FCフローニンゲン戦でプロデビュー。この時、わずか16歳と242日だった。
ファン・デル・サール、ライツィハー、ブリント、ライカールト、ロナルド・デ・ブールとフランク・デ・ブールの兄弟、ダーヴィッツ、リトマネン、クライファート、フィニディ・ジョージ、オーフェルマルスなどアヤックス黄金時代の錚々たる顔ぶれがいた。このプロ最初のシーズンで、オランダ・カップを制覇する。
1994-95シーズンにレギュラーポジションを掴み、1995年5月24日、19歳にして一度目のUEFAチャンピオンズリーグを制覇。
相手は、後に所属することとなるファビオ・カペッロ率いるACミランだった。この試合でも先発出場を果たし、後半9分にヌワンコ・カヌと交代している。
1995年夏に、イタリア・セリエAのサンプドリアへ移籍。
移籍初年度(1995-96シーズン)、若い年齢(19歳)ながら32試合に出場し3得点をあげている。
潜在能力の高さを証明しつつも、ホームシック、チーム低迷などの理由から本来の力を発揮出来ないまま、わずか1シーズンで移籍することとなる。古巣のアヤックスは、このシーズンもUEFAチャンピオンズリーグ準優勝。
1996-97シーズンからは、レアル・マドリードでプレー。
弱冠20歳ながら、卓越した戦術眼、完成されたフィジカルを備えるセードルフがレアル・マドリードでレギュラーポジションを掴むのもごく自然な流れだった。リーグ戦全38試合に出場、6得点を記録しリ−グ優勝に貢献
1997-98シーズン、21歳で二度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成。トヨタ・カップも制し世界の頂点に君臨。
その後もチームの中心として活躍するが、
1999-2000シーズン、冬の移籍期間にて、チームメイトとの確執、チームの財政悪化などの理由から、インテルへと移籍する。(推定移籍金: 2300万ユーロ)
だがインテルに移籍すると、セードルフは徐々に輝きを失っていく。 控えの選手として苦しい時期を過ごし、代表でのポジションも絶対的なものではなくなってしまう。
2001-02シーズン、それでも後半戦に出場機会を得ると、目覚しい戦果を上げ復活をアピールした。
2002-03シーズン、フランチェスコ・ココとのトレードでライバルチームのACミランへ加入。
このシーズン、自身三度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成。(史上初の異なる三つのクラブでのチャンピオンズリーグ制覇)
2006-07シーズン、四度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成。この大会では、後にバロンドールを受賞することになるカカの活躍が取り上げられたが、セードルフ自身も随所に高パフォーマンスを披露している。準々決勝でのバイエルン・ミュンヘン戦では、相手ディフェンダーの股を抜いてのゴールと、フィリッポ・インザーギへ絶妙なヒールパスでアシスト。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でも、アレッサンドロ・ネスタのロングパスを頭で落とし、カカのゴールをアシスト。自身もネマニャ・ヴィディッチのプレスにもろともせずエドウィン・ファン・デル・サールの守るゴールに決め、優勝に貢献。UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーとUEFAクラブ最優秀MFを受賞。
2007-08シーズン、2007年12月にFIFAクラブワールドカップで来日。浦和レッズ戦では、カカのラストパスから決勝ゴールを決めた。
また同月、UEFAチャンピオンズリーグにおいて通算100試合出場を達成。
2008-09シーズンでは、怪我でアンドレア・ピルロが離脱したときにはレジスタとして中盤の底でプレーし、代役を務めるなど高いユーティリティ性を示した。
2010-11シーズン、序盤、自らのミスから失点の足がかりとなったり、不用意なパスミスなどで、ポジションを一時ケヴィン=プリンス・ボアテングに奪われるなど限界がささやかれた。
しかし、終盤になるにつれパフォーマンスが向上。ミラノダービーでの圧巻のプレー、サンプドリア戦では、無回転のフリーキックを直接決めるなど、結果的にミラン7シーズンぶりとなるスクデット獲得に貢献。
ミランにおいても、加入してからレギュラーポジションを奪われることなく、2011年4月18日現在公式戦395試合に出場している。これはミランにおける、外国人選手の最多出場記録である。
|
 |
↑ 戻る
→ トップ
→ 管理人一押し選手
↑ 戻る
|
|
|
 |