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国籍 |
アイルランド |
生年月日 |
1980/07/08 |
ポジション |
FW |
身長・体重 |
175cm72kg |
特徴 |
勝負強さ |
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▼選手紹介▼プレースタイル
アイルランド代表の最多得点記録を持つ。スピード、勝負強さ、闘志あふれるゴールへの執着心に優れているアイルランド代表のストライカー。ゴールを決めた後の側転から前転してのマシンガンポーズで有名。
1997年にイングランドのクラブ、ウォルバーハンプトン・ワンダラーズの下部組織でキャリアをスタート。コヴェントリー・シティFCで頭角を現し、インテルナツィオナーレ・ミラノに移籍。しかしイタリアのサッカーには馴染めず、(カップ戦で1ゴールを挙げたのみ)半年でイングランドに戻り、リーズ・ユナイテッドAFCに移籍。当時全盛期にあったリーズの中では出場機会を掴むと復調を果たした。
2002年のワールドカップでの活躍後、トットナムに移籍。移籍当初は全く手が合わないフレデリック・カヌーテやテディ・シェリンガムとのコンビネーションに苦しみ、放出は時間の問題かと思われたが、放出されたのはカヌーテやシェリンガムであった。その後もミド、ジャーメイン・デフォーなど決して相性が良いとは言えないストライカーたちと併用されつつも着実に結果を出し、2006-2007シーズンからは副将として、キングが出ていない試合ではキャプテン・マークを巻いている。
トットナム移籍後は、ターンオーバー制による出場機会の限界に加えて好不調の波はありつつも、シーズン終了時にはリーグ戦とカップ戦合わせて10点台中盤から後半の得点を上げている。また2006−2007シーズンは合計22得点と、デビュー以来最高の成績を残した。2007-2008シーズンはディミタール・ベルバトフとともに先発の位置を完全に手中に収めたため、同じタイプのライバルであったデフォーは2008年1月にポーツマスFCへの移籍を余儀なくされた。
2007年12月26日のフルアム戦にてプレミアリーグ通算100ゴールを記録。
2008年7月28日、少年時代からの憧れであったリバプールに移籍金 1900万ポンド前後で移籍。背番号は7。
しかしリバプール移籍後は目立った活躍ができず、2009年冬の移籍市場が終了する間際にトッテナムへと復帰している。リバプール在籍はわずか半年あまりだった。移籍金は1500万ポンド前後と推測されている。スパーズ復帰直後にハリー・レドナップ監督から主将に指名される。
2009-2010シーズンは、シーズン序盤こそデフォーとの2トップでスタメン出場しバーンリー戦で4得点するなどしていたが、以後はパフォーマンスも上がらず、レドナップ監督のファーストチョイスが、デフォーとピーター・クラウチの2トップにシフトし、スタメンでの出場機会を失っていった。1月には、放出が予想されていたロマン・パヴリュチェンコとチームが再契約、更にはASモナコからエイドゥル・グジョンセンのレンタル移籍での加入も決まると、スタメン出場を保証することができなくなったレドナップ監督も容認しコンスタントな出場を求め2010年2月1日にセルティックFCへのレンタル移籍が決まった。契約期間は半年間。
合流直後の2月2日のキルマーノックとのアウェー戦でスタメンデビューを果たすと 続く7日のダンファームリンとのスコティッシュカップ5回戦でPKを決め、移籍後初得点をマークした。その後もコンスタントにゴールを重ね、リーグ戦で12得点(16試合)をマークしたが、シーズン終了後トッテナムへ復帰した。
復帰するも、出場機会を得られず途中ウェストハムにレンタルされる。デビュー戦のブラックプール戦で2点目となる得点をし、1−3でチームの勝利に貢献した。
日韓W杯で来日した際、泊まったホテルのロビーでふざけてパスをしているうちに、誤ってシャンデリアを壊してしまったことがある。大きな破損ではなかったもののキーンは弁償すると謝ったが、支配人は「シャンデリアにサインをしてくだされば結構です」と許している。現在もキーンのサイン入りシャンデリアは島根県出雲市のそのホテルで見ることができる。
2009年クリスマスのシーズンにレドナップ監督が禁止していたにも関わらず、チームメイト15人とともにとゴルフ旅行と偽ってダブリンでクリスマスパーティーを開催した。これが、レドナップの知るところとなり厳重注意を受けた。パーティーの幹事はダブリン出身のキーンであり、一部ではこれが移籍容認への決定的な原因となったとも言われている。
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