豊富な運動量とスピードがあり、1対1の守備に強いなど高い守備力を誇るディフェンシブハーフ。また、ボール扱いもうまく、右サイドでのプレーもそつなくこなすユーティリティプレーヤー。
ボルトン・ワンダラーズFCの下部組織でサッカー経験のあるイングランド人の父親とウェールズ人の母親の下、カナダに生まれる。
カナダのクラブチームでのプレーを経て、1997年にドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンに入団。当時の監督オットマー・ヒッツフェルトに重用され2000-01シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝第2戦で出場停止のシュテファン・エッフェンベルクの代役として出場し、一躍注目を浴びる。翌2001-02シーズンには早くもレギュラーを獲得し、以降地位を確立した。
バイエルン・ミュンヘンとの契約は2010年まで残っていたが、マンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督が以前からハーグリーヴスに獲得の意志を見せ、さらにハーグリーヴス自身も移籍願望を口にしていた。2007年5月、バイエルン・ミュンヘンからマンチェスター・ユナイテッドに正式に移籍することが決定。移籍金はブンデスリーガ所属選手では過去最高の2500万ユーロ(約41億円)と報道されている。
2007-08シーズンはマンチェスター・シティとのマンチェスターダービーでプレミア・リーグデビューを飾ると、3月1日のフルハム戦ではフリーキックを直接決めプレミア・リーグ初ゴールを記録。そのユーティリティ性からさまざまなポジションを任され、チームのリーグ、CL制覇に貢献した。
2008-09シーズンは膝の度重なる怪我に悩まされ、9月に戦線離脱。11月には右膝、翌2009年1月には左膝の手術を行った。以降も復帰が近づくたびに故障を再発し、2009-2010年シーズンの終盤、サンダーランドAFC戦の数分間のプレーでようやくグラウンドに帰ってきた。しかし、手術後初先発となった2010-2011年シーズンのウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC戦において、開始わずか10分でハムストリングを痛め負傷交代。マンUでの公式戦出場はわずか39試合にとどまった。
彼の才能を巡ってはドイツ、カナダ、ウェールズ、イングランドが激しい争奪戦を繰り広げた[要出典]。本人はイングランド代表を選択した。イングランド代表デビューは2001年8月15日のオランダ戦。
その後代表にはコンスタントに招集され、2002年ワールドカップ、EURO2004、2006年ワールドカップにも出場を果たしている。
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