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国籍 |
オランダ |
生年月日 |
1983/02/11 |
ポジション |
MF |
身長・体重 |
178cm74kg |
特徴 |
ポリバレント性 |
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▼選手紹介▼プレースタイル
高精度なキックと戦術眼を持つ選手で、複数のポジションをこなすことができる。セカンドトップ、トップ下、セントラルミッドフィルダー、レアル時代にはサイドアタッカー、アヤックス時代には左ウイングをこなしていた。
10歳でアヤックスユースに入団し、17歳の時にトップチームでデビュー。高いキックの精度と戦術眼で頭角を現し、2000-2001シーズンには27試合7得点の活躍を見せる。
翌2001-2002シーズンも7試合連続ゴールを含む14得点を挙げてリーグ制覇に貢献するとともに、2001年10月6日のアンドラ戦では代表デビューを果たした。
2003-2004シーズンはキャプテンとして臨み再びリーグ優勝に貢献。EURO2004にも出場を果たしたが、2004-2005シーズンは不本意な成績に終わった。2005-2006シーズンからは活躍の場をハンブルガーSVに移した。移籍金は推定550万ユーロ(約7億4300万円)で、5年契約を結んだ。
痛めていた左足も完治し、地元ファンから「小さな天使」と呼ばれ、ある少女に「ユニフォームちょうだい」という横断幕をかかげられるほどの人気だった(試合終了後にその日試合で使ったユニフォームを渡した)。ユヴェントスがファン・デル・ファールトに興味を持っていると報じられ、そのことに関し「とても名誉なことだ」とコメントしながらも、移籍先がレアル・マドリードでなければハンブルクを出ることはないと明言したらしい。
EURO2008ではヴェスレイ・スナイデルとともにチームの中盤の核として活躍し、オランダのグループリーグ突破に貢献した。
2008年8月4日、レアル・マドリードに加入を発表。契約期間が残り半年であったが、移籍金は1300万ユーロ(約22億円)にのぼった。しかし、ファンデ・ラモス監督が就任してから試合出場時間が激減していたため、2009年3月29日、会見で「僕はレアル・マドリーから出たい」と意思を表明した。
2008-09シーズンオフにクラブの人事もチームの戦力も大きく入れ替わり、ファン・デル・ファールト自身も移籍の噂も取りざたされていたが、シルビー夫人がマドリードで乳ガンの治療を続けているという事情から、届いた全てのオファーに断りを入れてチームに残留した。2009-10シーズン開幕当初はマヌエル・ペジェグリーニ監督から戦力外と見なされていたが、リーグ第4節のビジャレアルCF戦からベンチ入りし、その後カカの負傷離脱などもあって出場機会を増やした。
2010年夏には同ポジションのセルヒオ・カナレスやメスト・エジルが加入し、ファン・デル・ファールト自身はポジション争いに意欲を見せていたが、移籍市場最終日の8月31日にトッテナム・ホットスパーへ、移籍金800万ポンドで移籍。加入早々、チームを牽引する活躍を見せる。イングランドでは「今年最高の補強」とまで称された。MFにも関わらずリーグ戦で13得点を記録。2011年5月15日には、リバプールFCとのヨーロッパリーグ出場権をかけた試合では利き足では無い右足でボレーシュートで決勝ゴールを決めた。本人もこのシーズンの活躍に満足したようで、インタビューで「トッテナムでのプレーは楽しい」と語った。
アヤックス時代のチームメイト、ズラタン・イブラヒモビッチとは非常に仲が悪く、犬猿の仲であった。2008年、イブラヒモビッチが在籍するインテル・ミラノ移籍の噂が流れた際、トラブル再燃が噂された。その他、元アヤックスのマクスウェル、クリスティアン・キヴとは良好であった。ヴェスレイ・スナイデルとはアヤックス・ユース時代からの親友。
ヨハン・クライフに「走りすぎ」と言われるほどの運動量を持ち合わせ、オランダ代表やクラブの試合では最も長い走行距離となることが多い。
南アW杯抽選会で|オランダが日本、カメルーン、デンマークと同じE組に入った中、レアル・マドリードの記者会見において記者に感想を尋ねられた際に、他の選手が慎重なコメントを見せる中で、最後に「日本には勝つよ」と余裕の勝利宣言。質問したのが日本人記者だったため「君のために日本は2位だと言っておくよ」とあくまでリップサービスで余裕を見せ日本は眼中にないという自信満々の様子であった(その後実際にオランダは日本に勝利し、日本はグループ2位になった)。
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