8歳で入団した地元のクラブ・サンタンヌで1983年、11歳以下のジュニア全国大会で優勝し、人生最初の優勝カップを手にする。その後スタッド・ランス=シャンパーニュのフォーメーションセンターを経て、1992年にFCメスとプロ選手契約。1993年4月、デイヴィジョン1(現在のリーグ・アン)デビュー。程なくクラブの中心選手として頭角を現し、フォワードのシリル・プジェとのコンビは当時「PPガンマンズ」と呼ばれ、爆発的な攻撃力を誇った。
1996年にフランスリーグカップで優勝。この活躍によりフランス代表に招集され、1996年8月31日のメキシコ戦で代表デビューを果たした。また同年開催のアトランタオリンピック代表メンバーにも選ばれ、準々決勝まで進出した。1997-98シーズンには最終節で優勝を逃したものの、国内リーグでのクラブ歴代最高成績の2位を記録。この年のワールドカップ・フランス大会の決勝トーナメント1回戦・パラグアイ戦では、ゴールデンゴールとなったローラン・ブランのゴールをアシストし、優勝への過程に貢献した。
ワールドカップ後、フランスの名門クラブであるマルセイユに移籍。1998-99シーズンはUEFAカップで準優勝、国内リーグでも2位と好成績を残す。翌シーズンはキャプテンに任命されるが成績は低迷し、一部の過激なサポーターが主要選手の車を襲う等問題が多発、このシーズン限りでフランスを離れた。UEFA欧州選手権2000に臨むフランス代表に選出され、決勝戦ではダヴィド・トレゼゲのゴールデンゴールをアシスト。フランス代表の優勝に貢献した。
2000年にイングランド・プレミアリーグのアーセナルへ移籍。移籍当初は水が合わず思うような活躍が出来なかったが、2001-02シーズンにはフランス代表でも共にプレーするティエリ・アンリ、パトリック・ヴィエラらと共に主力として活躍し、プレミアリーグとFAカップの2冠を達成した。またこのシーズンは記者選定による最優秀選手に選ばれるなど、代表とクラブ双方にとって不可欠な存在となった。これらの活躍ぶりから2002年のワールドカップ・日韓大会でもフランス代表の主力メンバーとして期待されていたが、大会前に右膝の靭帯断裂という大怪我を負い選考から外れた。
2004年、レイモン・ドメネクがフランス代表監督に就任すると、同監督との確執が生じ2004年10月頃から代表に招集されなくなった。また、クラブでは負傷や若手の台頭もあり、レギュラーの座を明け渡すようになった。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝で、GKのイェンス・レーマンがレッドカードで退場した際に、控えのGKマヌエル・アルムニアと交代させられた。こうした事情もあり、2005-06シーズン終了後、長年プレーしたアーセナルに別れを告げ、スペインのビジャレアルに新天地を求めた。
ビジャレアルでの活躍が期待された矢先の2006年8月、ラモン・デ・カランサ杯のカディスCF戦で左膝十字靭帯断裂の大怪我を負い、戦線を離脱。なお、同大会ではゴンサロ・ロドリゲスも十字靭帯を負傷する大怪我を負った。2007年3月には調子を取り戻すためにビジャレアルの下部チームでプレーすることを希望したが、スペインサッカー連盟に却下された。2007年3月18日のソシエダ戦でようやく戦列復帰し、2007-08シーズンは主力として活躍した。2010年6月、契約を満了してビジャレアルを退団した。
10月から古巣アーセナルの練習に参加し、11月17日にイングランド・プレミアリーグのアストン・ヴィラFCへの加入が発表された。
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