右サイドウィングを本職とするが、トップ下、セカンドトップとしてもプレー可能で、スピードと得点感覚に秀でたアタッカー。身長164cm、体重62kgと選手としては不利とも思える体格を逆に生かした高い機動力、マッチアップする相手に削られるより先に身体を上手く相手に当てて突破を図る勇敢さとしたたかさが持ち味。相手DFラインぎりぎりで裏をつく飛び出しも秀逸。
守備においてもウイングでありながら、状況に応じてサイドバックの位置まで下がる等、チームのためにプレーできる選手でもある。
1990年にオリンピック・リヨンの育成機関に入団。1994年にはトップチームへ昇格を果たし、当時のジャン・ティガナ監督から絶大な信頼を得るが、監督の退任、自らの怪我もあり出場機会を減らす。1998年にティガナがASモナコの監督に就任したのを機にモナコへ移籍し、ダビド・トレゼゲ、ティエリ・アンリらをサポートする右サイドハーフで活躍する。その後クラブでキャプテンを務めるようになり、03-04シーズンのチャンピオンズリーグ準優勝などチームの得点源、かつ精神的支柱として大いに活躍し、バロンドールにもノミネートされた。2004年にFCバルセロナへ移籍、2005/2006年のUEFAチャンピオンズリーグ1回戦のチェルシーFC戦(ホーム)でメッシが負傷し長期離脱をしたために定位置を確保する。準決勝のACミラン戦(アウェー)では貴重な決勝ゴールを決めるなどチームには欠かせない存在になり、決勝のアーセナル戦では先発フル出場し、バルセロナの14年ぶりの欧州王者獲得に貢献した。2007年にASローマへ移籍したが、わずか1年在籍しただけでパリ・サンジェルマンFCへの移籍が決定した。2011年夏、契約満了となり退団。その後、リーグ・ドゥに降格したASモナコへ加入。
代表チームでの初出場は2000年3月のスコットランド戦。フランス代表の攻撃的MFはジダン、ピレス、ヴィルトールと層が厚くなかなか出場機会を得られないでいたが、FIFAコンフェデレーションズカップ2003では欠場したジダンに代わって10番を背負い、中心選手として活躍した。しかしその後はメンバー入り確実と見られたEURO2004では直前に負傷、ドイツW杯ではレイモン・ドメネク監督の構想外となり落選するなど、代表でのビッグトーナメントには縁が無い。
モナコ、バルセロナでの活躍ぶりとリヨンの名誉会長であるということからフランスのシャセレイという街にあるスタジアムが2006年夏にリュドヴィク・ジュリ・スタジアムと名付けられた。
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